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まずこの投稿はルーマン(Niklas Luhmann 1927-1998)の社会システム論を題材にしたものであるが、おわかりの通り彼の理論は非常に複雑であり、浅学な私が言及するのは適切ではないと思われる。しかしながら、社会科学におけるアカデミズムにおいてあまりにも“システム”という用語が無反省に多用されることはあまる良いことではないと思われる。この投稿では“システム”という意義、またそこからルーマン理論における Autopoiesis の有効性を再反省することが目的である。
この投稿は宮台真司の論文[1986][1987]の紹介としてつくられたものであるが、この投稿における誤解、理論的矛盾などあらゆる過ちは管理人の理解不足に責任がある[ルーマンのシステム定義への疑問]
宮台はルーマンのシステム定義法が非常に曖昧(文脈依存的)ではないか、と指摘する。
ルーマンのシステム規定は2つ(3つ)「①複雑性の落差による規定」「②行為予期の同一性による規定」(「③反応等価類による規定」)である。
①はルーマン理論ではおなじみの、環境に対する相対的不変性(=小さな複雑性)によってシステムを規定する方法、②は行為予期を安定した同一性を意味論的に保っていることで定義するという方法、システムの同一性は行為予期プログラム(=制度)の同一性に換言される。さらに③は「機能的に等価な反応選択肢類が行為予期において用意されるとき、その用意された等価類の同一性に基づいて、システム同一性が定義される」ということ。③は②に含まれる。([宮台 1987 p98]参照)
この2つは確かに部分的には一貫するかもしれないが、やはりそこには混沌が見受けられる。
結論から先に言えば、②を採用するのが望ましい。
そのことを確認するためには「物理システム」と「社会システム」の同一性確保定義の差異をおさえておく必要がある。
宮台[1986 p97]によれば、物理システムとは回帰システムつまり、「基本的には弱い因果律に従う因果的循環性・によって与えられる定常状態・の値の収束によって与えられる定常状態・の環境変動による遷移、によって定義される状態遷移の同一性」である。(例えば内部状態s、外部環境eとおくと状態遷移関数は s(t+1)=ψ(s(t),e(t)) 、出力yとすると出力関数 y(t)=φ(s(t),e(t)) となる。これによって有限オートマトンの動作は、状態遷移関数と出力関数との対によって記述できる。)
また、因果律とは、なにか原因があって、そこから生じる結果がただ一つだけということ。強い因果律というのは、原因と結果が一対一対応する(古典物理学)のに対して、弱い因果律は一つの結果において、2つ以上の原因を認める考え方。
では、社会システムの同一性はどのようなものなのか?上記で紹介した二つ「①複雑性の落差による規定」、「②行為予期の同一性」のどちらを採用するべきか?
物理システムにおいては、その要素間の決定関係は弱い因果律に服するものであった。
ex) t(1){A1,A2,……}→t(2){A1,A3……}→→t(n){A}
社会システムの性格はそれとは逆であり、意味論的な決定連鎖において、逆因果的な過程が見られ、一つのactionから情報量の増大ないしエントロピーの減縮が存在する。
ex) t(1){A}→→t(n-1){A1,A3,……}→t(n){A1,A2,……}
このことから分かるように、社会システムの定義は非常に困難である。宮台[1986 p99]の言葉を借りれば「意味論的伝達過程は絶えざる情報増大過程にあって、(物理システムのごとく)単位間の循環過程を仮に定義できたとしても、単位間の関係に収束を期待することは(行動主義的理想システムの如き非現実的な仮定をしない限り)論理的に望めないから」である。
ここで我々は「システム先取」概念を導入するしかない。(哲学では観察の理論負荷性とでもいうのかもしれない。)例えば「物理システムに於けるシステム先取」とは「既に或る行動規則性(=状態遷移パタンの同一性)についての予備知識・臆見を有している」こと。(例えば、「細胞システムについて研究する」と言った場合、最初から細胞に帰属する事象を選別できているという事実。)
これに対して「社会システムに於けるシステムの先取」とは観察者が○○に帰属する行為、行為接続を予め知っているという事実。つまり、「社会システムに於けるシステム先取」とは制度(=行為予期プログラム)の先取である。([宮台1986 p100]参照せよ)
これによって②の「行為予期(=制度)の同一性による規定」は保証されうる。
では、①の「複雑性の落差による規定」はどうであるか?結論から言うと無効である。
こうした定義が可能なのは、「システム要素の定義と要素間関係の定義とが意味論的に独立の場合に限られる。さもないと、要素間関係が要素の質(値)を決めるとする把握も、システム/環境の複雑性の落差が定義できるとする把握も、無意味になる」。
宮台[1986]によれば、部分と全体の間の定義的独立を前提とできるのは物理システムに限られると主張する。
上でも記述したように、行為という事態が先ず定義でき、次に行為を可能とする条件である社会システムに帰属する事象が発見できる(或はその逆)ということは不可能である。「行為ないしその接続の同一性を『定義』することが、直接に或る社会システムを『定義』している(逆も真)」ということは上記でも理解できる。
結論から言えば、社会システムの同一性は「行動予期の同一性による規定」がふさわしい。(この結論は宮台の論文のメインテーマではない、あくまで今回の投稿のメインテーマ)
また、ルーマン理論の重要な用語であるオートポイエーシスは因果的循環の範疇にある概念であり、①のような部分と全体の意味論的独立を前提としている。意味論的循環と因果的循環とは明確に区別するべきであり、社会システム(部分と全体の間に意味論的独立がないなか)にこのような回帰性を問題とするのは論理的に不可能というのが宮台の方針である。
つづく
主要参考文献
宮台真司 1986 「社会システム論の再編に向けて」『ソシオロゴス』(10)東京大学大学院社会学研究科ソシオロゴス編集委員会
1987 「社会学的機能主義の射程」『ソシオロゴス』(11)東京大学大学院社会学研究科ソシオロゴス編集委員会